民主主義から独裁は生まれる

2010年代に自民党が復権して以降「新冷戦」なる概念が世界の主軸となったわけであるが、これは読んで字のごとく冷戦構造の再現というわけであり、日米両国においては民主党を共産主義の手先としつつ中露と対決するという構図が好まれたわけである。

ここでは独裁という概念は明確に共産主義と結び付けられており、かつてのソ連のスターリン、現在のロシアのウラジーミル・プーチン、中国の習近平らがその象徴と見なされたわけである。

しかし、歴史的にみれば典型的な独裁というのは民主主義から誕生するものである。

たとえば古代における独裁者の典型であるネロは帝政ローマの皇帝であり、これは前史に民主的な共和政ローマを置いている。
もちろんローマという概念自体民主的なイメージと結び付くであろう。
それにもかかわらず独裁の象徴はローマから誕生しているのである。

現代においてはナチスのアドルフ・ヒトラーが典型であり、これもまた前史にヴァイマル共和政という民主的な政体を置いている。
そしてよく言われるように、ナチスは比較的に民主的な手続きを経て独裁に転じたのである。

また興味深いことに、ヒトラー自身は徹底した反共主義者でもあり、この点においては彼もまた民主主義陣営にある段階においては含みえたわけである。

なによりドイツといえばカントやヘーゲルといった哲学者を生んだ地でもある。
そのような地からヒトラーが誕生するという事実は、民主主義と独裁の相性の良さを象徴するようでもあるといえるだろう。

ではなぜこれほどまでに民主主義と独裁は相性が良いのであろうか。

理由は単純で、民主主義はポピュリズムと表裏一体だからである。

そしてこのポピュリズムと表裏一体であるという事実こそが、民主主義における独裁をより特色づけることに成功しているのである。

たしかに独裁ということでは共産主義も典型であり、むしろ民主主義の独裁よりも先駆けている部分はある。

そうであるからこそ現時点においては新冷戦構造のもと共産主義の独裁が非難されるわけである。

しかし共産主義の独裁は民主主義の根幹をなす大衆を含んでいないがゆえに、ポピュリズムとはまた異なる概念なのである。

事実、プーチンも習近平も独裁的ではあるかもしれないが、ポピュリストかと言われるとそこには疑問が残るであろう。
なぜならそもそも現代のロシアと中国には「大衆」が存在しないからである。
大衆という概念は民主主義国家の基盤であり、固有のものである。
中露の独裁には大衆が存在せず、良くも悪くもポピュリズムとは一線を画した側面が強いのである。

しかし民主主義国家の独裁の場合には、それを成り立たせるものが大衆であるがゆえに、意思決定は徹底してポピュリズム的にならざるをえず、独裁者と大衆が事実上一体化するかたちで国家そのものの暴走に陥りやすいのである。

この大衆を巻き込んだ独裁というかたちこそ民主主義社会から生まれる独裁の特徴なのである。

そしてこれは前提となるものが民主主義であるがゆえに、国際社会は虚を突かれやすいのである。

共産主義はその危険性がわかりやすい。
しかし民主主義から生まれる独裁は完全に想定外であるがゆえに、国際社会を混乱に陥れる度合いは一段と高まるのである。

事実アメリカが独裁的な国となり欧州に歯向かうなど誰が想定しえたであろうか。

また、民主主義における独裁は共産主義における独裁への反動として生じる側面があるため、新たな脅威となりやすいのに対し、共産主義における独裁はそれに先んじて既に警戒済みのため、国際社会としては相対的に脅威が薄まりやすいという流れがあるように思われるのである。

事実先の大戦においても早くからソ連式の革命が警戒されていたにもかかわらず、大戦中は事実上その話は無かったことになっており、新たな脅威である民主主義的な独裁に対して米ソが一体となって対峙するといういりまじった構図が生まれているのである。

今国際社会で起きつつある流れは明らかにそれである。

そして民主主義的な独裁はヒトラーがそうであるように建前上は「反共」であるために、国際社会としては対応が遅れてしまうのである。
より危険な独裁だと国際社会が気付いた時には手遅れになっている、というのがすくなくとも先の大戦の教訓といえるだろう。

もちろん歴史は繰り返さないものの韻を踏むと言われるように、あくまでもこれは基本的な型についての話であり、実際の展開は先の大戦と一緒にはならないであろう。
しかし、基本的な型が共通している、ということは現時点でも言えそうである。